昭和50年8月24日 朝の御理解
中村良一
御理解 第48節
「わが子の病気でも。かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
なかなか、わが子の病気、目の前に苦しむ姿を見て、それをほっておいて、神様におすがりするといったような、心の状態と言うものは、そうたやすく出来るものではない。ここんところを、私、またの御理解に、御徳を受けようと思えば、ままよという心になれ。ままよとは、死んでもままよのことぞと言うような御教えがありますね。合楽の皆さんの場合は、私は、実際問題に直面した時に、おかげは、そういうような心の状態にある時に、頂けれるんだ。また、御徳を受けるんだということは、もう、先ず、殆ど分かっておいでられると思うんですね。長年、私が説いてきたのは、結局、御徳を受ける事のための、いわば、信心ばかりですから、ここでは、こうすることが本当だということが分かっておられるんですよね。それで結局は、自分の問題になる時に、うろたえが出ましたり、ね。その、いうならば、ある意味で、難しいということに感じるのではなくて、けれども、やはり、ここんところはね。神を信ずるというか。身近に神様を感じることを信ずるということが、段々出来てくるのですから、いざという時に、ここのところの、まぁ、いうならば、信心のない者から言うたら、離れ技のような事ですけど。ね。子供が、病気や怪我で苦しんでおる。そしたら、枕元から離れられんのが親の心。けども、こういう事では、おかげにならない。それこそ、子供が言うことを聞かぬ時に、もう構わんぞと言うような、あの、例えをもってこれに取り組むんで行くですね。ね。構わんぞといったような心持で、放任するのじゃなくて、そういう心持で、神にすがっていく、ね。皆さん分かっておられましょう、そこんところは。みんな分かっておる。ね。だから、出来る時もありゃ、出来んときもあるわけです。ね。また、そういう時にです。結局、お取次ぎをいただいて、ね。親先生が、言うならば、平気にしておられたから、これはおかげを頂くというように腹が決まるようになるのです。ね。だから、そういう信心の、いうなら、おかげを頂くとか、お徳を受けるというその、まぁ、状態というのは、こういう状態であり、おかげを受けるというのは、あの、そういうあり方だと言う事をです。皆さんが分かっておいでられる。だから、まぁ、分かっておられるとしてです。私は、次のお話を聞いて頂きたいと思うんです。皆さん、ここんところを、皆さん分かっておられるです。ね。言うなら、心配に打ち込んだって、おかげは受けられない。その心配を一遍、棚の上に上げたような気持ちで、信心をせよと言うのです。ね。そこを、御取次ぎをいただくとです。確かにその、心配は心配なんだけれども、親先生が、まぁ、いうならば、平気な顔して、お取次ぎを下さったんだから、おかげ頂くという確信が出来て、その心配なことも、言うなら、棚にあげて、一心におすがりする。言うなら、病気で寝ておる子供を、ね。それこそ、放任するような気持ちで、神にすがる。私はね、そういう信心が、まぁ、出来たとして、これからはもう、おかげが頂けれる世界。いうならば、ね。おかげの花が咲いて、おかげの実が実っていくという。
私は、今日は、その事を聞いていただくとい事よりも、御理解第48節と言う、その、しじゅうはっ節というところを、実は頂いたんです。この、今、私が、皆さんに聞いて頂いたところを、まぁ、御理解じゃなくて、この、四十八節と言うところを頂いたんです、四十八節というところを。ね。だから、始終ということは、何時もという風に頂いてください。八節というところは、何時も、広がりに広がっていけれる、おかげのチャンスというものは、何時もあるんだという事ですよ。しじゅうはっせつ。ね。
まぁ、例えて申しますならばです、ね。合楽が、椛目合楽を通して、ね。二十数年間。もう、それこそ、日まさり、月まさりに、おかげを受けてきたという事実を、一遍思うて見てください。神様は、嘘を仰らない。ね。もう本当に、日まさり、月まさりのおかげ。椛目の時代に、畳六畳と、四畳を一つに、中の襖を取って、そこで、お取次ぎの真似事のような事が始まった。お取次ぎをしようと、そんな気持ちじゃないのですけれども、まぁ、皆さんが、お見える、私の話を聞きに見える。話を聞いて助かってくださる。さぁ、一緒に御祈念しましょうやと言うて、一緒に御祈念をする。もう、信者時代から、お月次祭というものを、必ず、私の自宅で、内々でして降りましたから、その月次祭月次祭に、沢山な人が、沢山というが、あの時分、あの、今言う、六畳と四畳のお広前に一杯集まって、その外に、八畳ぐらいなお縁があって、先は、広い庭であった。もう、庭に立錐の余地がないぐらい、立ってから、お月次祭拝んでました。それで、結局、私が一人で、何もかにもさせて貰う。お神饌もさせて貰う、御祈念もさしてもらう。そしてその後に、お話をさせて頂くともう、一晩中、お話が出ました。さぁ、一きりつきましてから、さぁ、もうこれで終わったから、皆さん帰ってくださいというても帰らなかった。そすと、またお話が出来る。ね。また一きりつくというような状態でした。ね。どんどん、人が集まりますから、その当時の警察やら、保険局やら辺りから、色々な苦情が出るほどしでした。沢山人を集めるというのは。そこで、その当時の、まぁ、熱心な信者さん方が、より集まって、宗教法人神愛会という、三代金光様のお許しを頂いて、神愛会なるものが生まれた。ですからもう、それこそ、御大祭たんべんに、あのお広前が広がった。そして、お屋敷、あの、屋敷というても狭い屋敷ですけれども、もう、つう一杯になり、二階も総二階にして、つう一杯に建ててしまったから、今度は、道をはさんだ向こうのほうを少し相談して、そこに家が建つと言うような状態でした。それはもう、年々歳々のことでした。もう、年々歳々いうならば、広がりに広がって行った。言うなら、今日の、四十八節じゃないけれども、何時もが、そういうおかげのチャンスであったということはです。どんな場合であっても、私は、言う事を聞かぬ時に、ね。もう構わんぞ、ほっておくという様な、どういう問題があっても、その問題はほっておいて、いうなら、神様へ打ち向こうて行ったという生き方が、日まさり、月まさりであったし、年まさりにおかげを頂いて、今日の合楽を見ているんです。ね。だから、その事実を見ただけで、嘘ではないことが分かるでしょうが。そこでほんなら、私が今、この四十八節の内容を聞いていただいたんですけれども、ここんところは、皆さんがもう、よーく合点がいってるところでしょうが。本当のおかげち言うものはそこだと。ね。いうなら、それを、合楽の方たちは、どう言うてきたかというと、どんな場合でも、親先生任せになるという生き方を、いわば、身に付けてきたわけです。ね。例え、医者にかかっておってもです。「もう、そげな難しか事ば、お医者さんな言わっしゃるならもう、帰ってこんの」という様な生き方だったです。そこの、合楽食堂のお母さんが、乳癌で、もう、いよいよ医者が難しかち、手術をすりゃ、一年ぐらい、まぁ、生き伸びられるかも知れんという風に、言うた時に、「もう、そげなやかましかこつ言わっしゃるなら、もう、連れて帰ってこんの」ち。それを聞いたから、婆しゃまは、もう一人で、病院は逃げて帰ってきたっです。ね。そしてもう、それこそ、とんとん拍子におかげを頂いて、それから、十年余り、九十三歳ですか、四歳まで、おかげで乳癌という病気があったじゃろかというくらいにおかげを頂いた。ね。一事が万事、そういう調子だったです。ね。いうならば、もう、ままよという心というか、ね。これは、子供だけの事ではありません、子供が病気の時にうろたえる、うろたえることをしないで、親先生任せになってきた。そこに、かすかな安心があった。そのかすかな安心がおかげをいただく元になってきておる事実をね、だから、ほんなら、皆さんここに、お集まりの皆さんがです。ね。やはり、そういう意味でのことならば、みんな体験者であります。そこで、この四十八節の内容はです。大体、分かっておいでられるとしてです。一つ、私自身が、おかげを受けてきた、二十数年間の、それこそ、日まさり、月まさりにおかげを頂いてきた。なるほど、四十八節は、何時もが、広がりに広がっていく道だけを辿ってきたという生き方を、これから、皆さん、いよいよ、身に付けていき、またおかげを受けて頂きたいというのでございます。昨日の御理解でした。神様が、いうならば、金庫を開いてござるようなもんだ。頂くという気になって、皆さんがおかげを頂く、そのいただき心をいよいよ、どういうことがあっても、ままよという心は、そのまま豊かな心であります。ね。いらいら心配があった、フアンでたまらなかったけれどもです。お取次ぎを頂いて、自分のその心が、平静になって、豊かな心で、その問題に、その事柄を、その豊かな心で処していけれる心の状態というものをです。いよいよ、出来ておらんけれども、これから、そういう生き方を、いよいよ身に付けていくという、皆さんが発心をなさるならばです。もう、出来たものとして、神様はおかげを下さろうと言うのですから、ね。そこでです、ほんなら、おかげを受けるから、そのおかげをまた、せっかく頂いたおかげを落とさんで済むような信心こそが、これからの信心だと言うことになりますですね。どうぞ、この、四十八節という意味が分かったでしょう、ね。そこで、この、六十一節の一番最後のところにね。私どもが、そういう生き方こそが、生神を目指して、いよいよ、その進化していくというか、進んでいく、生神を目指しての信心が、いよいよ出来る。いうならば、信じて疑わない心。神様と一心、いわば、同体、神様と一体になれれる道なんです、信ずるということは。ね。だからここに、こう言うてあります。「神になりても、神より上になるとは思うな。」私は、ここんところがです、いうならば、おかげを頂いて、そのおかげを落とさんで済む決め手であります。ね。皆がね、例えばここに、高芝さんがおられる、高橋さんがおられる、もしこの高橋さんに、またこの高芝さんにです。願い通りの、例えば、商売は、どんどん繁盛する、お金はどんどん儲かる。もし、これからじゃなくて、今までに、もし、そういうおかげを頂いておったらば、高橋さんが、どげんなっておられただろうかと思うて、想像しただけでも、それこそ、身に肌がその、粟粒が出来る思いがします。高芝さんという一家にです。こらもう今頃、大変なその、何億の財産家に、もし、神様がしてござったらです。もう、それこそ、どこまで、登るじゃら上がるじゃら分からんごたる状態で、それこそまた、ぎゃふんち言わにゃん目に合わねば、もう、立ちも上がりも出来ないような事になっとったと、私は思います。こら、高芝さんだけじゃありません。高橋さんだけじゃありません。久保山さんに於いてや、しかり、ね。秋山さんに於いてしかりだと思うのです。ね。おかげは、それこそ、神様の働きの間違いなさを、分からせていただきながらも、言うなら、昨日の御理解じゃないけれども、その日その日が立ち行けば、楽じゃという程度のおかげに留まっておったという事です。だから、その留まっておる間に、今日、私が申しますようなところを、芯から分かっておってくれよ。ここが分かった時に、神様はおかげを下さるということになるのですから、神より上になると思うなという信心が身につかなきゃならない。言うなら、慢心です。慢心がでると、おかげを取り外すぞと、こう言われるのです。人間は、それこそ、慢心と、かさけのないものは無いと言われるぐらいに、皆が持っているんです。ね。
私は、昨日、八波というご本を、何時も送ってくださる先生があります。その八波に、こういうような事がでておりました。ちょっと聞いていただきましょう。医師ですね、医者のこと。医師の役目は患者の自然治療を助けることにある。医師が病気を治したと、自信を持って言える病気は、どれだけあるだろうか。外科医の元祖といわれる、バレというお医者さんですね、バレという。その人が外科医の元祖とある。の有名な言葉、ね。外科医は手術し、神これを癒し給うと言っておられる。ね。外科医の人が、先生がです。手術をなさるけれども、その傷なら傷、病気なら病気を癒して下さるのは、神様だと言ってるわけです。はぁ、もう私が、そうにゃ頑張って修行したけん、おかげ頂いた。あの人は、私が導いたから、あの人は助かった。もう自分が助けたごと思おうとる。こら取次ぎの先生でもある、私の取次ぎが良かったから、この人どんが助かった。と、いう時には、もうすでに、神よりも上になっておる心の状態です。私が助けた、ね。少しゴヒレイが立ちだすと、段々、やっぱり人が助かります。そすと、ほんなら、私が取り次ぎ助けてやったというようなです、心の状態は、そのまま、私は、神より上になったことだと思います。どんなにおかげを受けても、慢心ども出すことではない。どんなにおかげを頂いても、私が助けたのではない、神様が助けてくださった。どんなに名医と言われてもです、ね。医者が、ただ手術をしたというだけであって、その傷を、病気を癒しなさるのは、神様だと言うことが、芯から分かったら、慢心は出ません。ね。今日はね、そこん所をです、一つのおかげの受け物として。そこんところが、本当に分からせて頂いたらです。どれだけ合楽示現活動が出来てです、沢山な人に示現活動が出来て、お導きが出来たというても、助かっていっておると言うてもです。その御用に使うて頂くことが有難いのであって、私が助けたのじゃない、助けて下さるのは神様だと、分かり分からせて頂くという事がです、ね。私は、これからのおかげを、いよいよ受け止めていく心だと思います。ね。自分が話をしてやったから、あれが助かった。もう、すでに、神より上になった心の状態です。これは、取次ぎ者としても、そこん所を、良く分からなければならない。または、皆さん、信心させていただいてです、ね。六十一節にありますように、「神より金光大神に、いつまでもつきぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。」と言う、この神心となりて、真の道を踏んでゆくと言うのですから、間違いが無いのですけれども、神心ではなくて、ね。自分の我で話し、我で導く、ね。そして、私が導いてやったから、あの人どんが助かったのというような、もし考え方が、ここにちょこっとでもあるならば、もう、それだけでも、おかげは渡されないち言うことになるのです。またおかげを落とす。それで怪我する。ね。だから、神様が、一番最後のところに、釘をぽんと打ってござる。「神より上になるとは思うな。」と仰っておられる。ね。ここのところの、例えば、今のこの、お医者さんが言っておる、その名言のようにです。ね。癒し給うのは神様だと。助けて下さるのは神様だと言うところを、ギリギリ分からせていただいてです。ね。神様が合楽の信奉者、ご縁を頂いておる、全ての方にです。神様が、おかげを下さろうとしておる働きを、働きとして、現していくために、昨日は、豊かな心を持って、いよいよ、受けものとしようと。だから、受けものが、受けただけではない、その受けたおかげを落とさんで済むことのために、今日の御理解は、効いていただいたんですよね。どうぞ。